エチオピアのランナーの強さの秘訣が分かった(気がする)

ランニング、マラソン,学び

自分のランニング熱をさらにブーストさせるために(笑)、最近は読む本もランニング関連のものが多くなっています。

そんな中で最近読んだこの本は、エチオピアの選手のマラソンやトラック競技での速さの秘訣というか、「なぜ勝負に強いのか」を垣間見ることができました。

 

 

才能だけで速いわけではない

書店でパラパラと見て、具体的なトレーニング方法や速く走る方法のようなものが書かれているものではなさそうだな、とすぐに察知しましたが、表紙の帯の部分の

「ハイレ・ゲブレセラシェ氏推薦」

の文字を見て、「これは読まなきゃ!」という気になりました(笑)。

 

読んでまず思ったのは、エチオピア人選手が速いのは才能だけでは決してないのだということでした。
いや、才能もあるのかもしれないですが、それは数ある要素のほんの一部分でしかないなと。

 

何が速くさせるのかというと、やはり「裕福になるため」というのが一番大きいようです。

 

「走るのは大変だけど、それまでの暮らしに比べれば楽なものさ。以前の僕のような働き方をしていたら、ひとく腰を痛めてしまうだろう。それでも、その仕事でいくら働いても人生は変わらない。でも走ることには、人生を変えるチャンスがある」
私はこの言葉を、一緒に練習しているランナーに「なぜ走るのか」と尋ねたときに何度も聞くことになる。みんな、「人生を変えるために走っている」と言っていた。ランナーになると決意した者は、成功して大金をつかむためにランニング中心の生活を送っている。だからエチオピアのランナーはよく、都会で生きる目的を失っている若者と同じ道を選ばないために、走ることを選んだのだと言う。

 

マラソンの賞金はサッカーやテニス、ゴルフなどの他競技と比べると決して高額ではないですが、エチオピアという国の環境下ではランナーが一番実現可能性が高いのかと。

調べると、エチオピアの2020年の国民一人当たりGDPは約2,900ドルだそうです(日本は実質値で約420万円)。
たとえ100万円弱の賞金(数千ドルや数千ユーロ)であってもエチオピアの選手にとっては大金であり、だからこそあきらめずに必死で走るのだなと。

 

国土の多くが高地であることなどの地理的な要素もあるし、ハングリーだけで速いわけでもないのですが、この本を読んでいると努力による部分がとても大きいのだと感じました。
そこは日本人もケニア人も変わらないのでしょう。

 

ちなみに余談ですが、よくある話で「家から学校まで10~20km離れていて、そこまで毎日走って通っていたから速いのだ」とかいうのは俗説でしかないようです。
この本によれば、ケネニサ・ベケレは「学校にほど近い町の中央広場付近に住んでいた」のだそうな。

 

いろいろ刺さった

読んでいて、「なるほど」を超えて「へぇ~!」や「おぉ~!」と思うところが多かったです。

私が読んでいて刺激を受けた部分をいくつか引用すると、こんな感じです。

 

「成功するのは、足を動かす前に、目で見て、頭で考えるランナーだ。感情だけで走る者は成功しない」

「一人で練習するのは健康のために走る人がやることさ」
「自分を変えるには、誰かと一緒に走らなきゃダメだ。自分のペースじゃなく、相手のペースに合わせて走るんだ」

「いろんなところで走った方がいいよ。場所を変えれば、学べることは多い」

「陸上競技は誰かと一緒に練習するものだよ」
「環境も利用しなきゃいけない。起伏のある場所を走らなければならないんだ」

まず、「ガイズ(時間)」が必要だ。走るための時間はもちろん、「イレフト」と呼ばれる、次の練習までにしっかりと休養をとるための時間も必要になる。二つ目に、練習を続けるためには十分な量の良質な食事が必要だ。三つ目は、「ヤ・スポート・マサリヤ」。これは「スポーツ用具」や「施設」という意味だ。ランニングシューズやランニングウェアだけでなく、望ましい練習場所に行くためのバス代も必要になる。
これはメディアが描く「シューズすら買えなかったからこそ、苦難に見舞われたからこそ、東アフリカのアスリートは成功をつかみとる」というイメージとはかけ離れている。実際には、こうした経済的な条件が大きな参入障壁となっているのが現実だ。

エチオピアでの「軽い日」は、たいていペースはゆっくりだが、走る距離は長い。早朝の練習では、ほぼ毎回1時間10分は走る。

「置いていかれることに慣れてはいけない。それも、一種の練習への適応になってしまうからだ」
だから、前にいるランナーの「足を追いかける」ことを学ばなければならない。2メートルの差をつけられることに慣れてしまうと、レースでも同じことをしてしまうようになる。それはよくない。

「ケネニサは信じられないほどランニングに真剣に打ち込んでいた。目標をはっきりと心に描いていた。13歳のときには、世界チャンピオンとオリンピックチャンピオンになると言っていた」

「ランナーとして生きるとはまさにこういうことさ。走るか、他のやりたいことをするか。どちらか一つしか選べない。成功をつかむまでは、アップダウンもある」
「1回のランニングには何度もアップダウンがある。ランナーの人生にも同じように浮き沈みがある。それでも続けていれば、苦しい時期は終わる」

「石が転がっている地面を走り、斜面を走り、泥の中を前進する。そうすれば、スタミナがつき、体が強くなる。必要なものがすべて手に入るのさ」

「どんなときだって、寝ているときより走ったほうがいい。クリスティアーノ・ロナウドは風邪を引くとプレーしない。ガレス・ベイルもプレーしない。彼らは休む。外国人はみんな休む。だけど、僕たちエチオピア人は休まない」
エチオピアのランナーには、医学の一般常識とは正反対に、病気のときに走れば(治癒効果があるとされるニンニクを鼻の穴に突っ込んだ状態で行うことが多い)強くなれると考えを持つ者が少なくない。苦しんでも文句を言わずに続けることが、「コンディション」づくりにつながると考えているのだ。

疲労回復や体力の節約が必要なときは、ゆっくりとしか走れないような地形を探してそこで練習をする。世間の人たちは東アフリカのランナーに対して、常に自分を追い込むような速いペースでハードな練習を積み重ねている、というイメージを持っている。たしかに、それは真実の一側面を言い当てている。だがむしろ、彼らが大切にしているのはハードワークよりも賢さである。それは、いつ頑張るか、いつ楽に行くかを適切に判断するということだ。彼らが長けているのは速く走ることだけではなく、遅く走ることでもあるのだ。

 

「ベケレ」じゃなくて「ケネニサ」

エチオピアでは一人ではなく誰かと一緒に練習しているだと書かれていましたが、そこは真似せずこのまま一人で走ろうかなと思っています。
自分が走るのは自分自身に勝つためであり、健康のためでもあるし(笑)。

 

他方、練習ではただ闇雲に速いペースで走るのではなく、メリハリをつけることは大事だと改めて感じました。
最近私がやっていることも決して悪くはなさそう。

 

ちょっと厚めの本でしたが、とても読み応えがありました。

これからはマラソンやランニング競技を見る時は、エチオピアの選手にも注目するようになりそうです。

 

 

余談ですが、エチオピアの人の名前には「姓」というものがないそうです。
子どもが生まれると名がつけられますが、その名と父親の名を組み合わせることで、名前が成り立っているのだそうです。

なので、「ケネニサ・ベケレ」というと、「ベケレの子供のケネニサ」という意味合いであり、彼を「ベケレ」とだけ言うのはお父さんのことを言っているようなものらしいです(エチオピア人にとっては違和感しかないらしい)。

今後は「ケネニサ」と言う(書く)ようにします。